ヴァルカン  VULCAIN

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特徴について

音鳴りによってその機能を着用者に知らせる時計をストライキング・ウォッチと呼ぶ。ミニッツリピーターなどがあるが、もっとも実用的なのがアラーム・ウォッチだ。1947年、これを世界で初めて腕時計で実現させたのがヴァルカンの“クリケット”である。その歴史は19世紀の中頃、フランスから移住したある家族から始まる。

略歴:時代背景や歴史について

スイス連邦国家が着々と形成される中、長らくプロイセン等の飛び地的支配下にあり自治権を認められていなかったのが、ラ・ショー・ド・フォンが含まれるニューシャテル州である。しかし1848年3月、元々独立意志強固な人民によりニューシャテル革命が勃発。ここにニューシャテル共和国州が誕生した(ちなみに同州議員でありスイス時計業組合会長のエメェ・アンベールは、1864年に来日し日本・スイス修好通商条約を締結した本人)。

  このような激動の時代に、バーゼルにほど近いヘーゲンハイムからとあるフランス人夫婦と7人の子供たちがラ・ショー・ド・フォンへ移住する。商人である家長の名はジャック・ディティシャイム。彼の生涯は不明だが、その子供のひとりモーリス・ディティシャイムは時計都市の洗礼を正しく受けたらしい。モーリスがラ・ショー・ド・フォンの納税者台帳に「時計仲買人」と登記したのが1858年のこと。この年こそ、約100年後に時計界において革命的な発明品であるアラーム・ウォッチ「クリケット」を世に送り出したヴァルカンの始まりであった。


科学・産業の世紀となる20世紀を予見するかのように、19世紀は「万国博覧会」という一大イベントが「発明」された世紀として記憶に残る。その白眉は第1回目のロンドン博覧会(1851年)だが、ギュスターヴ・エッフェルによるエッフェル塔を博覧会の開催に合わせて建造し、パリのモニュメントとして後世に残した1889年開催のパリ博覧会が有名だ。

  当然、パリ万博での出展を目指すスイス時計会社は多く、ヴァルカンもそのひとつであった。当時のスイス出品企業公式カタログには「モーリス・ディティシャイム、ラ・ショー・ド・フォン、時計工房、非の打ち所のない品質」と紹介され、製造販売時計としては「シンプルカレンダー、永久カレンダー、クロノグラフ、クロノメーター、グランド・ソヌリなど」と多彩な製造能力と「年産4万個」という生産量が誇らしげに書かれている。

  この言葉を証明するかのように、彼らの出展品のひとつである超複雑懐中時計「ラ・ヴァレ・ド・ラルヴ No.2259」は銅賞を受賞した。ついに万国博覧会で認められたヴァルカンの高い芸術性と技術力。順風満帆に見えた彼らの前途だが、突如としてモーリスを襲った病魔がヴァルカンに暗い陰を落とすことになる。


18Kゴールド製ケースには表・裏蓋共周囲に真珠が2列ずつセッティングされ、それぞれ七宝細密画が施されている。表蓋はふたりの貴婦人に本を朗読する貴族、裏蓋はジュネーブ・シャモニー間に広がるアルヴ谷風景画が描かれている。


パリ万国博覧会の2年後の1891年、突如病魔に襲われたモーリス・ディティシャイムは、経営を息子のエルネスト・アルベールに譲ることを決意。1893年、こうして新社名「ディティシャイム&Cie - モーリス・ディティシャイムの後継者」と共に新たな経営者が誕生する。

  彼は生産能力の拡大という問題から素早く着手。ラ・ショー・ド・フォン駅近くの郵便局近くに新工場を建築し、これに伴い社名を1898年10月に「ディティシャイム&Cie - モーリス・ディティシャイムの後継者 - ヴァルカン社」に変更、こうして初めて「ヴァルカン」の名称が当社の歴史に登場することとなった。ラテン語で「武器と華麗な装身具を作る鍛冶職人」を意味するこの名称が採用された経緯は不明だが、これほどふさわしい言葉は他に見当たらない。


エルネスト・アルベール・ディティシャイム(1870~1956)
若干20歳を過ぎたときに会社経営を引き継ぐことになったものの、その重責に負けることなく見事に社を成功に導いた名経営者であり実業家。彼無くして「クリケット」の成功は無かったであろう。

  この時期エルネスト・アルベールは工場の移転を繰り返し、海外への販売網を拡張するという成長戦略の指揮を採り続けた。第一次世界大戦直後も彼らの成長は留まることを知らず、100名以上の従業員を抱える自社一貫製造会社=マニュファクチュールの地位を確立した。この基盤があればこそ、次世代の経営者がその開発に傾注した世界初のアラーム・ウォッチ「クリケット」が誕生できたのである。



  セットした任意の時刻にアラーム音でそのことを告げる腕時計。人間の活動範囲が広がりを見せる20世紀初頭以降、考えればこのような機能を持つ時計は、第二次世界大戦後の腕時計の三大必須機能といわれた防水、自動巻き、日付表示に並んでも不思議はないほど、極めて実用的な機能であった。

  もちろんアラーム機能は懐中時計では存在していた。問題はこの機能の腕時計化であり、具体的には小型化したアラーム機構の機械式ムーブメントへの搭載方法、着用者が気付くほどの音響を持ちながらも時計機構の精度と防水性能に悪影響を与えない共鳴振動機構、そして充分な動力機構などが挙げられる。

  多くの時計会社が解決策を見い出せないこの問題に真っ向から挑戦したのが、ヴァルカン三代目経営者ロベール・ディティシャイムである。チューリヒ連邦工科大学機械電子科で学んだ彼は、1942年にこの難題に着手。優秀な専門チームを編成した彼は音響学上の研究を始めるが、この翌年、旧知である物理学者ポール・ランジュヴァンからの助言は、今も時計史に残る有名なエピソードとして伝えられている。「コオロギのような小さな生き物が30m以上離れても聞こえるほど大きな音を出せる以上、複雑な機構を収めた小さなケースもほぼ同じことができるはずだ」

  実に5年に及ぶ苦闘の末、1947年ついにこの問題を克服したロベール・ディティシャイム率いるヴァルカンは、世界初のアラーム・ウォッチを発表する。搭載されるのは新開発ムーブメント、キャリバー120。強力な音響は中蓋をハンマーが叩くことでこれを振動させ、さらに穴の穿たれた裏蓋で増幅することで解決した。こうして史上初のアラーム・ウォッチは、ランジュヴァンのアドバイスにちなみコオロギ=「クリケット(Cricket)」と命名されたのである。


  1947年12月、世界に先駆けニューヨークで発表されたクリケットは瞬く間に大センセーションを巻き起こした。ヴァルカン創立150周年記念に刊行された『A PASSION FOR FINE CRAFTMANSHIP』によれば、「世界各地で何千もの新聞記事がこの世界初の機構の革新性、パフォーマンス、有用性を報道した」とされる。今や人類は世界のどこにいようとも、自分にとって必要な時刻を教えてくれる最高の小型デバイスを手に入れたわけである。

  とりわけこの発明品に強い好奇心をもって迎えたのがアメリカ合衆国の、特に高い地位にある人々であったという。その最高位にあるのが歴代大統領。例えば第33代のハリー・S.トルーマン、第34代のドワイト・D.アイゼンハワー、第36代リンドン・ジョンソンなど。第37代のリチャード・ニクソンもまだ若い頃に全米時計製造協会の年次総会でクリケットをプレゼントされている。確かにクリケットは大統領への格好の“贈答品”として選ばれたという一面もあるが(例外はリンドン・ジョンソン大統領。彼は自らジュネーブで購入した唯一の大統領)、肝心なのはおそらく数ある時計の中でもクリケットが選ばれたことであり、かつ歴代大統領が“お気に入りの時計”として愛用したことだ。

  こうしていつしかクリケットは「大統領の腕時計」という代名詞を冠するようになっていったのである。


世界に衝撃をもたらしたクリケットだが、1950年代に入ると、より困難な環境下でも作動可能であることを証明すべく、様々な挑戦が試みられた。

  ひとつには世界有数のアルピニストたちへのクリケットの提供。1954年にK2初登頂に成功したイタリア遠征隊など、山岳の過酷な状況下においても確実に作動することを証明したクリケットだが、同時にヴァルカンは、なんと本格的な潜水時計の分野にも挑戦する。

  これは完全な防水性能と水中においても聴き取り可能な音響性能という、相矛盾するふたつの性能を両立する必要があった。結果的にいうと、三重構造の裏蓋を持つ、当時としては巨大な42mmの非磁性スチールケースのほか、強化プラスティック素材の時計風防やラバーストラップの採用など強化策は時計全体に及んだ。


こうして1961年、世界初のアラーム付きダイバーズウォッチ「クリケット・ノーティカル」は完成を見たのである。

  しかし、この年はヴァルカンにとっては新たな問題が浮上した時でもあった。巨大で強力な競合時計会社が群雄する中、単独でエボーシュの製造から一手に行うマニュファクチュールを維持することが困難になってきたのである。そこで同年、ヴァルカンはビュザー、フェニックス、レビュー・トーメン各社と共に企業連合グループ「MSR(Manufactures d’horlogerie Suisses Réunies=スイス時計工業連合会)を結成。1973年にはマーヴィン社も参加するが、事実上の実行支配権がレビュー・トーメンにあったため、徐々にグループ内では不協和音が生じ始める。そして1980年、MSRは完全にレビュー・トーメンの支配下に置かれ、さらに1986年、MSRグループはただ1ブランドを残すことに決定され、ここにおいてヴァルカンはしばしの間、休眠状態に入ることとなったのである。


2002年3月7日、スイス、ル・ロックル市においてスイス国内紙と時計専門誌を招いた記者会見が開かれ、ヴァルカンの復活が宣言された。場所は同市内のヴァルカン新社屋、宣言を行ったのは新社長ベルナール・R.フレウリー氏である。

対してプレスは「名高いスイスの時計ブランド、ヴァルカンのルネッサンス」(Neue Zurcher Zeitung紙)など、好意的にこのニュースを報道、ヴァルカンの復活を歓迎した。

  実は新社長のフレウリー氏は長くレビュー・トーメンのマネージャーを勤め上げた人物。ヴァルカンの復活を長く模索していた彼は、前年に資本準備を完了、PMH社(Production et Marketing Horloger SA)を設立した後、各商標やクリケット、アラーム付き機械式ムーブメントの独占使用権等、法的準備を整えていたのである。自ら復活を手掛けるに当たり、彼は3つの誓いを立てたという。

「第一は、クリケットのキャリバーを再生産し、すべてのモデルに搭載すること。第二は、このキャリバーをベースにより複雑なコンプリケーション・ウォッチへ発展させること。そして第三に、世界一となるべき“マスター・コンプリケーション”をつくることでした」(『TIME SCENE Vol.6』徳間書店刊)

  ヴァルカン復活の要はなんといってもクリケットの再生産。有言実行のフレウリー氏はこれに搭載すべく新アラーム付き機械式ムーブメント、Cal.V-10も完成させていた。このCal.V-10の基本構造はかつてのクリケット・ムーブメントCal.120と同一であり、二重香箱やひとつのリューズで時計用とアラーム用の巻き上げを行える「巻き上げ切り替え基軸」など、1947年の基本理念を忠実に踏襲していた(もちろん精度は格段に向上している)。

  こうしておよそ15年間の休眠から目覚めたヴァルカンは、再びその音色を時計界に響き渡らせることとなったのである。

(参考文献『TIME SCENE Vol.6』徳間書店刊)


企業情報

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参考文献や引用元

  1. http://www.gressive.jp/satellite_site/vulcain/history/
  2. 書籍、文献名(編集必要)
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  4. その他、情報源があれば

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  • 最終更新:2014-09-05 22:53:20

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