ボヴェ    BOVET

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ボヴェ(BOVET)の特徴

「差別化を越えた独創性」

時計市場ではどのブランドも他との比較を余儀なくされていますが、ボヴェウオッチはその中でも独自性を確立しています。
各パーツの職人たちに類い稀な技術を披露してもらうという、ウオッチメーキングの最高の形態でありましょう。

180年前、ボヴェウオッチは中国の皇帝にエキゾチックなヨーロッパ芸術を誇示するために作られました。
現在ボヴェはそれを再現するために、あえて自社工場を持たず、スイスで最高のエナメル細工師、彫金師、ウオッチメーカー、ジュエラー達が最高の仕事をすることにより、最も美しく芸術的な個性を復活させることが可能になりました。
ボヴェは優れたそれぞれの部品と稀少な職人技術にこだわっています。
エナメルのダイヤルに、ブルースチールのボヴェ針とクラウン、マザーオブパールに細密画描写…そしてムーブメントは優美さと力強さとに溢れています。

豪華な彫刻とエナメル装飾の美しさ、またムーブメントは伝統的な高級時計仕上げで、ひとつとして同じ時計は存在しません。
全世界で年間2,000個の生産、そのほとんどが限定版であり、あとはユニーク ピースです。
ユニーク ピースとはお客様からのオーダーによってオリジナル商品を生産するもので、製作には数ヶ月から1年を要します。
“ボヴェの時計は独創的であり、際立った個性を持っている。”
と、ボヴェ社長 パスカル ラフィは語っています。 それは歴史的背景によるもので、1822年エドワード ボヴェが24歳の時スイスのフルリエから中国の広東に市場展開したことに始まります。

数年後には、中国ではボヴェ「播威」といえば、時計を意味するようにまでになり、フルリエは中国時計市場の生産拠点となりました。 ボヴェの時計は真珠やエナメル、精巧なミニアチュ―ルと19世紀の偉大なマエストロによって装飾されていました。
彫刻がほどこされたムーブメントが見えるよう、そのメカニズムをスケルトンにして初めて紹介したのが彼でした。
エキゾチックな装飾と二重になった裏蓋は中国だけではなく、アジア中で名声を高め、そして中東およびラテンアメリカにもビジネスは拡大していきました。

今日のオークションではボヴェの時計は多くのコレクターにより高額で取引されています。
ボヴェが中国で活躍していた時、紫禁城フォービデュンシティ9999会議室の時計博物館には皇帝コレクションの遺品が展示されおり、その中央にはボヴェの柱時計と4つの懐中時計が展示されていたことが後に確認されています。
現在は、香港そして日本に子会社を設立し、少量生産ではありますが、積極的にそして時には ユニークな独創性を、厳選したロシアの小売店、アメリカ・ヨーロッパの小売店へとビジネスを広めています
また、ジュネーブ本社にショールームをオープンする予定であります。

略歴:時代背景や歴史について

ボヴェ兄弟によって1822年に設立されました。その1人エドゥアールは修業後にフルーリエに戻り、「チャイニーズウォッチ」の製作を始めて名声を博しました。
これらのチャイニーズウォッチはペアになっており、当地の湿気にも耐えられる様に作られていました。ブランドは1950年代まで繁栄を続けます。その後1989年に復活を果たし、2001年にはパスカル・ラフィーがオーナーとなりました。ディミエ1738で製作されるムーブメントや部品を用い、完全に独立したマニュファクチュールとなっています。


歴史年表

1797
エドゥアール・ボヴェがフルーリエに生まれる。その父ジャン=フレデリック・ボヴェは、スイスジュラ渓谷ヴァル・ドゥ・トラヴェール地方のフルーリエで働くウォッチメーカーの親方でした。

1814
エドゥアールは時計職人となるための修行を終え、兄弟のアルフォンスとフレデリックと共にロンドンへ旅立ちました。ロンドンは当時の時計製作の中心地で、ヨーロッパ中の時計が集まる交易の場でした。

1818
エドゥアールは4月20日に東インド会社の船オーウェル号に乗り込み、ロンドンを後にしました。そして8月16日に広東に到着しています。到着して間もなく、彼は4点の時計を10,000スイスフランで販売していますが、これは現代の貨幣価値では百万ドルに相当します。

1822
広東を拠点としたエドゥアール、ロンドンに留まった兄弟のアルフォンスとフレデリック、そしてフルーリエに残った3人目の兄弟グスタフ、彼らは中国で時計を販売するために手を組みました。ロンドンには5月1日付けでボヴェ社の最初の売買証書が残されています。彼らのビジネスは大成功を収め、その製作拠点をフルーリエに移しました。

1824
ペアになった時計の製作を開始。中国では対になったものは幸運を象徴するものとされ、ペアウォッチは最高の贈答品として珍重されました。

1830
フルーリエに「チャイニーズ・パレス」と呼ばれる社屋を設立。1905年にこの建物は町役場となり、現在はボヴェが創設に加わったカリテ・フルーリエ財団の拠点となっています。

1835
ヴァル・ド・トラヴェール地方のフルーリエ近郊に14世紀に建立されたモティエ城が、アンリ=フランソワ・デュボア=ボヴェに売却されました。1957年にこの城は彼のひ孫らによってヌーシャテル州に寄贈されました。

1840
フレデリックがロンドンからフルーリエに戻り、当時175名が働いていた工房の指揮を取りました。

1849
フレデリックが52歳でフルーリエにて死去。その頃までには、「フルーリエ製の時計は長きに渡って中国市場を独占し、ボヴェの名は時計を表わす同義語にまでなっていました。さらには取引の通貨として用いられる事もありました。」(A.シャピュイ著「チャイニーズ・ウォッチ」より)

1855
初のパリ万国博覧会において、中国皇帝から委託されてラグジュアリー部門に出品されたエナメル製のペアウォッチが金メダルを受賞。
ボヴェは1900年頃まで中国との取引きを続けましたが、当時の中国にはフランスのブザンソンやアメリカなどから時計が殺到し、さらに無数の模造品が溢れて市場が崩壊していました。

1889
アルフォンス・ボヴェの長男フリッツ・ボヴェは、秒針と分及び時間積算計が付いて24時間までの計測が出来るシングルボタン・クロノグラフ機構で特許を申請。彼のこの画期的な機構は、クロノグラフをデュアルタイム表示として用いる事も出来ます。

1930
2つの特許を申請。1つは腕時計をデスクウォッチとしても使用できるポートフォリオ・ウォッチ、2つ目はフライバック機構を備えたクロノグラフで、これは現在でも重要なコレクターズ・アイテムとなっています。

1950
ボヴェの時計がジュネーブ、ロンドン、ニューヨーク、ボンベイで販売されました。

1989
フルーリエにボヴェ社が復活。年間2000本以下という少量生産で、その3分の1以上はスペシャルオーダーによるものです。
ボヴェの腕時計は懐中時計のケースの様に12時位置にリュウズやペンダントがあるのが特徴です。このケースやサーペント針は、19世紀に中国市場向けに作られた時計をモチーフにしています。

2006
2001年からブランドのオーナーを務め、唯一の株主であるパスカル・ラフィーが、STTホールディング傘下にあったトゥールビヨン、ムーブメント、ヒゲゼンマイを製作できる3つの企業を買収し、ディミエ1738と名前を変更しました。これによってボヴェは自社製ムーブメントを製作できる独自の供給元を得た事になります。また彼は歴史的建造物となったモティエ城をヌ-シャテル州から買い取り、現在はボヴェの新工房となっています。

2011
「レボリューション」誌で「トゥールビヨン・オッタンタ®」がデザイン賞を受賞。

2012
アジアに力を入れていた市場開拓のトップ企業DKSHと提携し、アジアでの地位向上に取り組む。DKSHはアジア全体におけるボヴェのマーケティング、販売、アフターセールスサービスを担当し、ボヴェとその製造部門ディミエの株式を20%保有しています。

企業情報

創業:1822年

創業者:エドワール・ボヴェ

創業地:スイス(フルリエ)

関連する製品ラインについて



参考文献や引用元

  1. 書籍、文献名(作成中)
  2. WEBサイトアドレス
  3. その他、情報源があれば

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  • 最終更新:2014-09-05 21:33:01

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